安積山麓さんぽ(駅前さんぽ 舞木駅)
- 2020.06.25
- 安積周辺歴史

山よりちょっと離れますが、郡山駅から一駅離れると何があるか?首都圏とは違った面白いものが見られました。
磐越東線 舞木駅前
明治時代の磐越東線
この路線は明治22年三春から郡山までの運行で、田村地方で収穫された「たばこ、繭」を鉄道馬車で運んでいたのが前身です。郡山駅から旧国道を通り久保田経由でそれ以降は現在の磐越東線と同じルートを走っていたようです。
郡山市歴史資料館にある鉄道馬車のレプリカ


昔の記憶
昔の記憶ですが磐越東線の阿武隈川にかかる鉄道橋の南側に鉄道馬車の架橋の基礎があったような?気になっていたので探してみました。

汽車が先に進みません。舞木駅に進めましょう
直毘神社
舞木駅から徒歩2分。川を渡って国道288号線沿いにある直毘神社、ここには和算学者の佐久間庸軒が開いた佐久間派で学んだ和算家の算額が奉納されています。

直毘神社の算額
和算は近代の微積分を使わず図形などを計算する方法を研究する学問です

現代でいうとHPの管理人かブログの投稿者?自己認証欲求の強い人は昔からいたのですね?神社は昔の書き込みの場所だったのでしょう。
田村周囲に奉納されている算額の数は全国有数と言われています。興味のある人は算額に書かれている問題を、解読して答えを出してください
和算の謎?
安積疎水事業は郡山町に猪苗代湖の水を東注する大事業を行ったことは有名ですが、その時の政府お抱え土木技術師ファンド―ルン。しかし実際の工事設計を行ったのは和算学者たちであったことは周知の事実です。
和算家たちが提出した工事設計書をファンド―ルンは承認しただけで、設計の精度は高くファンドールンはグーの根も出なかったのでは無いでしょうか?
実際ファンド―ルンの監督事業は失敗したものもあります。
明治維新以降に佐久間庸軒の弟子たちが、和算による測量・建築設計の技術者として、全国に広がり明治維新の礎を作ったことは、郷土の誇りとして評価されるべきものと考えます
直毘神社の祭礼
神社入口にある案内板

高屋敷稲荷神社
荒井浄水場 西の東部広域農道を北上すると赤い鳥居が目に飛び込みます。

高屋敷稲荷神社の由来

東北の伏見稲荷
タイトルからずれてしまいました。高屋敷稲荷の鳥居は舞木駅前の東側のJRのガードをくぐった場所に一基目があり 2km先の高屋敷稲荷神社まで連なって建てられていたようです。しかし戦時中の敗戦色が強くなってきた時点で米軍の攻撃の目印になると言う事で撤去されてしまいました。
現在、舞木駅から高屋敷稲荷まで鳥居が残っていたら東北の伏見稲荷として、世界中から観光客が押し寄せていたことは間違いないでしょう。舞木駅は無人駅にならず駅前にはショッピングモールが・・・・・戦争は何かを狂わすのですね。

郡山と三春に挟まれた忘れ去れそうな町 舞木 探してみれば色々ありそうな町です。
蒲倉墳墓群
舞木南の蒲倉には古代の墳墓群があり、郡山美術館の東側の尾根筋に50数基の墳墓群が見られます

関連時事は 安積山麓さんぽ(古墳・墳墓・摩崖仏)
河野廣中の揮毫碑?
隣の東部ニュータウンにこんなものを見つけました。緑が丘公園山中にあった≪運動場の碑≫河野廣中?裏の記銘文を見ると斎藤小学校の校庭を拡張するために寄付を集めて云々・・・なぜ?河野廣中⇒自由民権運動のイメージから初めは「里動揚抗」と読み違えてしまいました。
建立したのは明治40年ごろ。たしか2年前は日露戦争の戦後処理で日比谷公園での暴動の主催者として獄につながれたり、乱立する政党を渡り歩き、過去の民権運動と離れた時期に揮毫を依頼され、チヤっちゃと書いたのかな?と思います(勝手な推測)。大正時代になって普通選挙確立のために粉骨砕身、老いた体に鞭打って運動したのは周知のことです。
歴史にまつわる。なにこれ?と思うものを探し紹介いたします。
-
前の記事
SWRメーターの照明(無線テクニカル工房) 2020.06.16
-
次の記事
安積山麓さんぽ(駅前さんぽ 日和田駅) 2020.06.28