安積山麓(駅前さんぽ 郡山駅)
- 2020.10.11
- 安積周辺歴史
明治20年開業で東北本線、磐越東線、磐越西線、水郡線と新幹線が接続される駅で、人口30万人を抱える都市の玄関口となっております。
しかしその反面、福島の他の都市と比べ駅前付近に、お城や目立ったビューポイントがなくちょっと寂しい街になっています。
駅前のモニュメント(近年の構築物)
本物は市内の麓山公園内にある明治時代の安積疎水を引いたときに作られた滝。ここにあるのはミニュチュア版です。この疎水で郡山市が明治以降発展したといわれています。
駅前には西口に「GReeeeNの扉」、東口には舟木一夫が歌ってヒットした「高校3年生」の記念碑があります。
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丘 灯志夫は郡山商業高校卒業です、生涯2000曲を作詞し福島市の古関祐而と並ぶ音楽家です。同校の後輩に同じく作詞活動をした太田 博がおります。沖縄戦で陸軍少尉として従軍しており、ひめゆり学徒のために作詞した「相思樹」は戦火の激しい沖縄で、少女たちへ歌による安らぎを与えたことは、特記すべきこと思います。 郡山商業高校の正門右側に記念碑があります。
西口を西に数分繁華街を歩くと道路元標と郡山市水道記念碑が町の中にあり気付いた人もあると思います
安積国造神社
地元では八幡様と言われ、郡山の秋季大祭は縁日が出て大賑わいです。
郡山地区が安積と呼ばれるのは、比止禰命がこの地を納め、阿尺国造と言われこの神社に祀られたのが起源と言われる様です。
こんなところにおじいちゃんが(安積艮斎像)
江戸時代末期に安積国造神社に生まれ、今泉家に養子に出された。後に学問がしたいとの一心で、江戸へ向かい佐藤一斎、林述斎に学び私学を開き幕府直轄の最高学府「昌平坂学問所」の教授になった人です。(神社会館南側にあります)
国学である朱子学と同時に、当時危険思想であった陽明学もを教える当時としては先進的な教授でした。
彼の門下生は 三菱財閥創始者の岩崎弥太郎をはじめ吉田松陰ほか2000人を超え、後の日本社会を築きあげました。(こんなすごい人が郡山にに生まれていたんだ)又、幕末に外国の圧力を回避するために努力された。もう少し長生きされていたら戊辰の動乱はなかったかも?
余談ですが、安積国造神社は二本松にも神社があり姻戚に当たる浅川貫一(イェール大学教授)も時代が下ってから日米開戦(大平洋戦争)を回避するために努力されていたとは・・・・考え深いものがあります。
昆斎豆
ごんさい豆ってご存じですか?郡山の銘菓 柏屋さんで出されている豆菓子です。子供の時に何度か食べていましたが、艮斎が江戸に立つときに(当然徒歩で)持参した入り豆を銘菓柏屋さんが菓子にしました。
艮斎像の隣に立つ種字板碑(昆斎像の左側)
街中には珍しい種字板碑です
芭蕉が詠んだ幻の奥の細道(参道階段左側)
最近「安積山かたびらほして通りけり」の句碑が建立されました。元句は猪苗代兼載の「安積山片平越えて来てみれば初ホトトギスおとずれぞする」だと思われます。連歌の巨匠である猪苗代兼載の歌を芭蕉が知らないわけがないでしょう。奥の細道にはノミネートされることは難しかったのでは?と私は感じます。
阿久津善治 歌碑(境内南側)
前田夕暮の門下生であった阿久津善治は、市内の太田病院内のサークル「ケルン短詩会」を主宰した。「内聴現象」などの歌集がある。
歌碑には「ひとすじの雲に茜を残しつつ ためらいもなし時の流れは」と書かれています。雄大な自然の描写に、ちっぽけな自分の悩みなどはどこかへ飛んでゆくような歌です。
郡山の古刹 如宝寺
真言宗豊山派で、境内は七堂伽藍の建物が建ち並び、1万坪の境内には仁王門もあり見下ろす下には庭園が広がる、地方としては荘厳な寺院です。
伝説の虎丸長者が、大同2年に奈良平城京より馬頭観音の尊像を持ち帰ったのが縁起と言われます。馬頭観音堂は現在も地域の歳時記はにぎわいます。
地域の文化財
境内左側には宝物館があり国指定の文化財が展示保管されています。
国指定重要文化財
石造笠塔婆の他に板碑やイボなしの梵鐘等等お宝が展示されています
裏にもお宝が
この地方に残された切支丹の墓碑が展示されていました。(境内に切支丹のお墓?海外では絶対にありえない)
地域の偉人
鈴木信教和尚は戊辰の役で焼失した如宝寺を再建し、当時頻繁に行われた間引き習慣や沢山の孤児たちの面倒を見るなど、社会福祉の先鞭となった和尚様です。
悲しい記録(戦争の悲劇)
境内の南側には太平洋戦争時に学徒動員で市内の保土ヶ谷工場に動員奉仕していた、学生の慰霊碑があり、特に白河高等女子の学生が多く亡くなりました。戦争の悲惨さが今も心に刻まれます。
以前 おもちゃメーカー タカラの会長 佐藤安太氏との会食時、保土ヶ谷工場へ動員奉仕の話を伺うことがありました。つらく悲しい思い出として語られたことを思い出しました。
善導寺
安積国造神社の南300mにあり浄土宗のお寺です。光明山善導寺という名前なので西山浄土宗なのでしょうか?
このお寺も戊辰の役で焼失しのちに建造された建物が残っています。
奈良時代の建築様式を模した鐘楼
再建当時当に宇治平等院を解体復元された佐藤登氏が設計にあたったこともあり、奈良時代の建築様式が見られます。
善導寺の本尊は阿弥陀如来坐像であり平安後期の作といわれる。明治になって高村光雲の高弟 山本瑞雲が修復したと伝えられています。
街中の石仏
郡山の石仏は室町時代以前のものが駅周辺に立っています。鎌倉時代から立ってますので相当古く市の文化財になっています。
大町二丁目 阿邪訶根神社
阿邪訶根神社には3m近い国内最大級の曼陀羅を刻印した板碑があります。その下にちょこんと小さな阿弥陀三尊石仏がありました。
鎌倉時代の作と思われる通型来迎三尊、曼陀羅板碑の下にあるので目立たない板碑です
大町一丁目 今泉専門学校内
この板碑は「相生集」にも記載された、昔から有名なもので早来迎形で飛雲に乗った姿に特徴があります。
本町二丁目 熊野神社
神社の右側に阿弥陀如来の独尊、早来迎型の阿弥陀三尊と種子の板碑があります。
東横イン南側にある熊野神社
この町は阿弥陀町と昔から呼び親しんでいましたが、なんで熊野神社があるのに阿弥陀町なの?と思っていましたが、郡山の古地図を見ると奥州街道沿いは本町、東側は阿弥陀町と記載されており確かに古地図上に阿弥陀堂の記載もありました。ここにあった石仏は阿弥陀堂に祭られていたものと思われます。
池の台 荒池公園
駅前から少し離れますが文化センターの西側荒池東公園には阿邪訶根神社と同一の作者が作成したと思われる通型来迎三尊があります
安積疎水と小林久敬(荒池南の愛宕神社西側)
麓山公園内にある麓山の滝は、安積疎水の通水記念に合わせて町の有志家が浄財で作られたと聞きます。開成社設立と後の安積疎水通水、いろいろな思惑の中で郡山の産業は振興していったのでしょう。その中で小林久敬は私財をなげうって猪苗代湖から岩瀬地方に疎水を流す計画を立て事業を準備していましたが、のちに国営事業として現在の中山峠を貫通し安積野へ流れる安積疎水が、決定され完成を見ました。久敬はこの荒池にあばら家住まいの晩年を過ごしたといわれます。久敬の晩年に交流を深めたのが如宝寺の鈴木信教和尚であったことは有名な話です。
郡山の有志が作った麓山の飛瀑
郡山の市街地にも古の遺物があちこちにあり、ぶらっと歩き回れば新しい発見があちこちに見つけることができます。
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