安積山麓さんぽ(大名倉山 周囲)

安積山麓さんぽ(大名倉山 周囲)

大名倉山

郡山の北 本宮市と大玉村にまたがる575mの小高い山で、4号線や高速から見ると安達太良山の手前にある山です。右側の小名倉?にはNTTドコモの中継アンテナと本宮モットコムの無線中継所があり、目についた方も多いと思います。

  • 中央煙突の上 大名倉山
今回は本宮側から車で中継アンテナのところまで登り徒歩20分くらいで、頂上の展望台に到達します。ベンチはありますが雨が降った場合は早急に下山してください。

道順

郡山からの道順は49号線を喜久田 堀之内交差点「セブンイレブン/トライアル」右折。道なり本宮方面。突き当り「まゆみアリーナ/ファミリーマート」右折。
「まゆみアリーナ」のまゆみの語源は、万葉集{みちのくの安達太良まゆみ つらはけて引かば かの人 吾を言なさん}{みちのくの安達太良まゆみ はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも}から引用です。安達太良山の形が弓の形からまゆみかな?
安達太良は他に{安達太良の嶺に伏す鹿猪の在りつつも吾は至らん寝処な去りそね}と三首も詠まれており令和の歌に負けない歌枕となっています。梅の歌なんかには負けないぞ!
寄り道を戻して右折した道路を進むと「ローソン/佐川急便」を左折。 県道304を青田方面に進み高速道路と並走する手前に「岩井の清水」の案内が見えます。
  • ローソンからしばらく進むと蛇の鼻と書かれた看板の左奥に「岩井の清水」の青い看板あり(小さい)高速道路と並走したら行き過ぎです。

    寄り道右折で岩井の清水(飲めません)
岩井の清水は源義家の逸話からくる。世の中に八幡太郎義家の逸話は数多くあるが、後時代に有名歌人が歌に残した為 有名になった。定家の「てなれつつ すすむ岩井の アヤメ草 今日は枕に 又や結ばん」と曾禰義忠の「美草生し 安積の岩井 夏来れば 遠さをひちて 結びあぐるかも」が碑として立っています。本人が来たわけではないのに歌に詠まれただけで有名になる。歌謡界のプロモーションは古典に学ぶ事もありか?

寄り道を戻して 大名倉山はどこへ行った!

岩井の清水への曲がり角 (消防団詰め所)を清水の反対側に、道なりに進み本宮市の給食センターの先を左に大きく曲がる。舗装道路は民家の前まででそれ以降は砂利道です。山道に沿って登ると左側に桜の並木が見えて、春になると山肌に桜のラインが見えます。3km ほど山道を走ると右に曲がる舗装道路があり突き進むと中継所です。中継所手前に登山道入り口があります。車は中継所の駐車場に置いて Let’s Go !

いきなり舗装道路

NTTドコモ公団の舗装道路を上り詰めると中継所があります。ここに車を置いて手前の登山口から20分ほど登ると頂上です
郡山市街地
大玉地区はイグネと言われる屋敷林が5月の田植え後に見れるビュースポットです
趣味のアマチュア無線のアンテナと安達太良真弓

大名倉山周辺アラカルト

蛇の鼻游楽園

NTTドコモの中継アンテナの麓は蛇の鼻遊楽園があります。春の桜・藤・秋の菊・紅葉、又 蛇の鼻御殿は国の登録有形文化財に登録されていて、各部屋の襖絵は狩野派を代表とする絵師たちの絵が飾り、明治を作った伊藤博文、木戸孝允、三条実美の扁額等もあり歴史を感じる場所となっています。 詳しくは蛇の鼻のホームページ参照 http://Janohana.com/

香触森(かぶれもり)地蔵

大名倉山を下り岩井の清水を直進し高日向・西原方面に進むと途中地蔵地内に入ります錫杖山麓道路わきに「香触森地蔵」の案内板がありました。
香触森地蔵案内板
この地は本宮市で計画しているソーラー発電プロジェクトの計画地になっているので、山中に安置されている地蔵菩薩はどこに移転されるのか?数年後にはこの一帯がソーラーパネルで覆い尽くされます。
この地には文覚上人の逸話が多く袈裟御前と出家前の遠藤盛遠のエピソードが有名ですが、安達太良山麓の遠藤ケ滝を含む各地の名前は、後の人々が創作した可能性がありますね。文覚上人が遠藤盛遠であることは時の民衆は知るはずもなく、まして袈裟御前を殺害して出家した素性を自ら知らしめる事はないでしょう。また高山樗牛の「滝口入道」の小説も何か遠藤盛遠の逸話とデテールが似ているのが昔から気になってます。・・・自分だけ?

関下と岩色疎水

郡山市の安積疎水は明治の一大事業として有名ですが、永禄六年(1564年)戦国時代に五百川支流の七瀬川より疎水の隧道を掘り、本宮市 関下地区、荒井地区、青田地区を豊かな水田とした関下六左衛門(畠山秀富)は歴史的にもっと取り上げられてもよい人物と思います。
  •           修復しているが今も残る疎水隧道

戦国動乱時代になぜ関下の豪族が武力による覇権争いに至らず、なぜ近代的殖産事業に力を尽くしたか?またその資金は?疑問と想像の戦いが頭の中でせめぎ合ってます。
想像1  この疎水の源流近くには昭和時代まで操業していた「高玉鉱山」がる。五百川流域には砂金の採掘が?(根拠なし)
想像2  畠山氏は足利尊氏に仕え天文年間には信長に臣従するが、その際に資金の横流し?(信長の野望TVゲーム)

現在明確なのは岩色疎水が残っていること。

関下の阿弥陀堂

ここ石網地区の阿弥陀堂には石に彫られた通来迎阿弥陀三尊が安置されています。鎌倉時代ごろより地域の人々に大切に祀られており、通阿弥陀三尊として省は60年に本宮市教育委員会より市指定の文化財に指定されております。
地名は石阿弥陀が転じて石網になったことは容易に想定できます
関下六左衛門の墓の南200mの場所に赤い屋根の阿弥陀堂があります、浮彫の通来迎阿弥陀三尊は、堂内に安置されているので隙間からのぞき込むと確かに安置されていました。周囲には10基の講塚があります。
近隣の工業団地の近くにも祠があり2基の板碑が安置されてる。

地域信仰と講

明治33年建立の如意輪菩薩
講の参加者の名前
タイトルの如意輪観音は安政8年の建立されたもの
如意輪観音の顔は昔から「イボ神様として」疱瘡など皮膚病になると石仏を削って薬とした、信じられない民間治療の被害にあった観音様ですが  作られた時代が新しいので顔以外はきれいに残っています。
今も昔も美顔に対する執着は強いものがあるのでしょうか?
この地区で特記すべきことは10基の塔の2基が庚申塔(青面金剛力士塔 元治 4年)と 勢至菩薩(安永元年)他はすべて女人講で十九夜塔と如意輪観音塔であり、この地区の経済性の安定さ(強さ)は他の二本松藩には見られない事である。
最古のものは延亨元年の十九夜塔です。

あれー阿弥陀堂が無い!!

しばらく観音様のお顔を見ていないので。ご挨拶に・・・・お堂が消えていました

周囲の如意輪観音塔は健在でしたが。お堂が跡形もなく消えていました。

周囲を探すと宝塔の形に作られたお住まいから阿弥陀三尊が飛び出し無造作に置かれていました。 ( ;∀;)

さりげなく置かれた? 鎌倉末期から室町時代初期と思われる阿弥陀三尊

お堂の中には阿弥陀三尊が安置されていると文献に載っているので間違いはないと思いますが。何ともおいたわしいことですね。

戒石銘

二本松藩と戒石銘碑
「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」武士の俸禄は領民の苦労のたまものであり、領民を虐げてはならないとありますが、享保の改革から藩は財政改革で領民を苦しめ、寛延2年の百姓一揆の年に戒石銘が作られました。しかしこの年暮れに安達・安積の農民一揆が蜂起、その後守山藩に飛び火しその後の天明8年の飢饉でも旧多田野村で蜂起、幕末まで打ちこわしを含む騒動が続いています。
今も昔も為政者はお題目は立派ですが内容が伴わないのは人間の性でしょうか?その中で上記の関下・荒井・青田地区は一揆の記録は確認できていません。これも関下六左衛門の功績でしょうか?

 郡山市周辺の小高い山はたくさんあります。次の山はどこだ!