武奧増補行程記12-6を現代に見る(3~7)
- 2025.09.03
- 歴史
奥羽増補行程記12-5に引き続き 12-6を訪ね歩きます。12-6は福島大学近くの若宮坂(6-3)に始まり宮城県白石市の児捨て川(6-32)の行程記になります。今回は6-3 若宮坂~6-7 福島まで訪ね歩きました。
絵図にある古文書の解説文や和歌の読み下しに間違いがある場合はご容赦ください
行程記6-3(若宮坂)
12-5-34(久保田村)から12-6-3(若宮坂)へ絵図は変わりました(日和田~二本松~安達)が欠落しています。

若宮坂
福島大学と福島県立医大付属病院の間に通る奥羽街道 金谷川に若宮地区から始まります。絵図では手前左に地蔵とその先に観音様と石灯篭と碑があるようです。


行程記6-3(根子町)
今でも根子町と言われるようですが現在は清水町になっています

考念寺(仲興寺?)

仲興寺

この地区は寺の上や観音堂が残っていますがその地名は清水になっています
根子の名前ありました

一里塚跡
住宅化して塚のイメージが付きませんが地元の方が史料を基に場所を選定してくれました。
あとかたもなく消えてしまった場所も多いもでしょうね
行程記6-5(伏拝町)
旧四号線(伏拝坂の旧道)の西に清水町一里塚跡から伏拝集落に抜ける道が奥州街道です
今も残る山越坂

山越坂の途中には首なし地蔵と猿田彦と言われる石碑が・・・なかった。
馬頭観音がありました

伏拝坂
昔この辺より福島の向山 羽黒の杜を信仰したる老女あり 福島の辺 昔しは湖水なると仰せるは、道端でこの処より 拝み申して神の恵みを蒙っていれば元よりして伏拝み坂と名付けたると 御座候
ここから良く見える信夫山には羽黒神社が祀られています。大きな「わらじ」が有名ですね。
結城古舘の方伏拝坂より見えたり 信夫山に結城氏の館が存在したことは、他の文献になく作者の勘違いと思われる。しかし福島と白河の結びつきは深く、市内に結城氏の館が在ったのは文献にあるようですが場所は限定されていません 五十辺の館でしょうか?

舟繋ぎ石 こんな山の中に日本武尊の神話の頃はやっぱり湖だったのかな?

伏拝町
此の辺よき清水あり 近くには樋水と清水内の地名在り 清水内には森永乳業の工場があります

森永乳業の工場

この地区を過ぎると伏拝川です。

濁川にかかる荒川橋

大笹生山は大森城山
大森山公園と思われます、大森町は現存。伏拝川は濁川「この川に河童多く候由」は無いでしょう。

下鳥渡利
せっかく大森山まで来たので陽泉寺に行ってみました(道草です)
陽泉寺

御弥陀三尊が祀られているお堂

早来迎型阿弥陀三尊

この三尊板碑は国指定の文化財になっています。又陽泉寺には南北朝時代に作られたという木造釈迦如来坐像も国の重要文化財として安置されています。
行程記6-6(郷の目村)

亘の地名は宮城にも?双方とも阿武隈川の河川運搬で栄えた、荷役渡しのイメージがありますが、渡利は福島だ‼とはっきり絵図に描いてあります。
郷野目より阿武隈川を渡ると亘(渡利)です。地名の由来は能因?が詠んだ「浅茅が原 荒たる宿は 昔見し 人をしのぶの亘なりけり」後拾遺集(雑)読み人知らず で信夫の亘を、はっきり歌に残してます。
郷の目は雁鴨水鳥多し庄衛門の記述の様に荒川と大森川、濁川が阿武隈川に流れ込む湿地だったのでしょう
伯耆田村 現在の方木田 地名が残っていると嬉しいですね。しかし伯耆田の一里塚は都市化に埋もれてしまいました。
結城館 (誤記の疑いあり)
度々書き込めれるほど良く見える信夫山 伏拝坂より此の館山良く見え 伊吹は上方 結城は此の所 ここでダジャレ?
一杯森
美術館西の森合一杯森で、昔長次郎狐が住んでいたと言われる森。一杯長次郎稲荷があります。正眼寺や山頂には愛宕神社がある

一盃森長次郎稲荷
信夫山の権坊狐、石ヶ森の鴨左衛門狐とともに「信夫の三狐」と呼ばれた一盃森の長次郎狐がすみかだった洞穴に祀られています。 長次郎狐は大変ないたずら狐で、村人を困らせたと民話に伝わっています。いつのころからか商売繁盛の神として信仰されるようになりました。
佐藤館
一杯森から佐藤継信・忠信の佐藤館、飯坂方面が遠く見えるのか?
行程記6-7(福島)

須川 (荒川)
現在も須川町は荒川沿いにあります 水の流れ横幅二間、川原百間斗


橋落・不渡の時は川制札が 川札は福島でも出されていたのですね。

柳稲荷
江戸口の反対側にあり行程絵図には書き込まれていませんね。火災時又は流失してない時期だったのでしょう
柳町・荒町・中町と現在も並んで地名は残っています。

絵図のお寺は誓願時と康善寺が確認できます。近辺には常光寺、真浄寺、東安寺があるのですが絵図とは照合できませんでした
清願寺(請願時)

考善寺(康善寺)

福島城

現在の福島城

大仏城の由来

板倉氏の神社

さすが県都福島ですね。さりげなく城址公園にある
名所の山
一杯書き込まれているので何処がどこだか不明です。信夫山~忍○忍○信夫○ 作者も混乱
福島 信夫の歌
定家
郭公 忍の里に 里なれよ また卯の花の 五月待頃(ホトトギス 信夫の里に さとなれよ また卯の花の さつきまつころ)
僧正公朝
みちのくの 忍の里の 秋風に もちずり衣 打ちもたゆまず(陸奥の 信夫の里の 秋風に もちずり衣 打ちもたゆまず)
家隆
見守しや 煙を何にまかふらん 忍の浦の雲のもし日火(見守しや 煙を何に 向こうらん 信夫の浦の 雲のもし日火)
信夫の浦の雲のもし日火とは、信夫の里にたなびく彩雲が湖の様だというイメージですかね?
左右に見切れていますが、「此の浦という古事 追考にでたり 海辺遠き福島と云って 付いては昔 湖水にても 有りの良し」やっぱり福島は湖に浮かんだ町だったんだ。
板倉内膳正
板倉内膳正重正は島原の乱の総大将。徳川家康側近として大阪冬の陣の講和の軍使として活躍。この時代は板倉勝承(1743~1765)が城主の可能性が高い
福島市は江戸と盛岡の中間
当町江戸ト盛岡ノ中程ト云
先は長い我慢してお付き合いください
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