武奧増補行程記12-5を現代に見る(27-34)

武奧増補行程記12-5を現代に見る(27-34)

武奧増補行程記12-5は 郡山久保田村(12-5-34)迄、行程記12-6は 福島手前の松川町 若宮坂(12-6-1) から、なぜかこの間が欠落しています。二本松藩の国防の為 古地図の発行にクレームがかかったのかな?どこかに記録されているかもしれません。12-5も後半です最後までお付き合いください

滑川宿 5-27

古地図の中央に道標があります 右には一里塚
滑川宿 小宿 悲しいですね。道標は南は勢至堂峠を超え会津から越後。北は長沼仙台方面です

解説文や和歌の読み下しに間違いがある場合はご容赦ください

筑後塚

古地図の滑川橋手前に、道標がある高台は筑後塚の石碑がある場所です。しかし筑後塚は柏城小学校の開校に当たってこの周辺の石碑を集めた場所です。来るべきしてこの場所に来たという感じですね。
種字板碑が二基と阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔、阿弥陀二尊浮彫来迎供養塔の合計四基からなる供養塔群
左2番目は阿弥陀三尊来迎浮彫が2つある供養塔、右端は阿弥陀二尊浮彫来迎供養塔、ともに鎌倉末期の作と思われる。この地方は全国的に種字の板碑より古い時代の阿弥陀様が彫られた来迎供養碑が多い地方です。

実考子村 5-28 ちつこうし(十貫内)

遠く矢大臣山が見えます。右下に老翁ヶ大明神、チイ❓ ライ書違い?

老翁ヶ大明神 雷神宮

     キイ⇔ライ大明神?言い違い読み違いもここまでくると・・・・
雷神宮と鳥居に掲げられています。老翁⇔雷何処かでつながっているのでしょうか
この場所は県立青陵情報工高の裏手です。雷⇒電気⇒情報工高かなり無理のある関連付けです。
石切り場と描かれた近くには愛宕神社もあります
愛宕神社の鳥居
階段を登ると祠が
寂しい神社の境内でした

笹川 5-29

一里塚と道標、勢至堂山長沼方面。竜昌寺、天昌寺が描かれてます。

一里塚

此処は一里塚跡です

移転した一里塚供養塔

一里塚跡地にあった供養塔は近くに移設されています

移設した一里塚の敷地に笹川公方の慰霊塔がありました

笹川公方として足利満貞と満直が混在しています。ここの表記は満貞となっています

熊野神社

移転した一里塚供養塔の近くにある熊野神社
御所前の熊野神社裏手には阿弥陀三尊があります
熊野神社境内にある早来迎型浮彫阿弥陀三尊 左側に急いでいる様子が見えます。
神社の東隣の佐藤様宅にある美しいお顔の来迎型阿弥陀三尊 穏やかなお顔ですね

笹川御所

現在の天性寺付近は足利満直が居城とした篠川御所がありました。現在も御所前や東館の地名が残っています。
奥羽街道脇にある東館稲荷神社の入口
東館の城郭の上に作られた稲荷神社

天昌寺 天性寺

足利満直の菩提寺として曾祖父 足利尊氏の菩提寺。 天龍寺の名をとって 天性寺と竜性寺を建立したが、竜性寺は明治の廃仏希釈で廃寺になりました。

竜性寺跡付近

天性寺を南に進むと篠川神社がありました
旧御所大明神だそうです
絵図には天性寺、竜性寺と一里塚しか記載されていませんが室町時代以降の名残りが沢山あるようです

日出の山 5-30

  古地図に記載されていない寺社が出てきています
日出山の入口には明神とありますが現在は明神下という地名が阿武隈川の東にあります。
    絵図文「この川 滑川より同じ流れの距離25里 水上の25里先にて二又に別れ流れ候由
     25里先で滑川と隣接していますが同じ流れではありませんこの川は現在の笹原川です。
     篠川(死の川)を連想して忌嫌い笹川とした様です。

この近辺には子安観音堂と日出山二渡神社、49号線を挟んで二渡神社跡があります。近年供養塔を集めた高石坊供養塔があります

高石坊供養塔

    古地図の野原には近年都市化により近隣に点在していた供養塔(板碑)を集約処です。
23基の板碑が集められています

笹原川

笹原川は音無川か?
ささやき橋の句がありますがこの句と同じくが 久保田5-33にあります増補行程記の作者の勘違いか?

子安観音堂

    ここには市指定文化財の石造宝塔三尊供養塔婆があります
石塔婆の他に市の指定重要有形文化財「木造子安観音菩薩半跏趺坐像」と「木造地蔵菩薩半跏趺坐像」がある。
宝塔がある三尊像は珍しい。年代は不明ですが同形式の石仏は兵庫県加西郡北条町にある古法華山石仏があります。これは奈良時代の作で、類似したものはここ以外 全国的にも見られない貴重なもの。

日出の山二渡神社

以前 旧国鉄操作場にあった神社を当地に移転した比較して新しい神社です

以前から二渡神社が日出の山に2社あるのが気になっていましたが浮洲ケ岡公園の神社は元々田村麻呂由縁の神社で山王権現を合祀しその後火災にあり合祀したようです。

二渡神社跡

神社の俤だけは残っています
    入口の道路沿いに板碑が集められています
国道49号線と4号線の近く阿武隈川の近くこんな町中に・・種子板碑がありました 5mほど東には後年建てられた(化政時代)と思われる供養塔がありました。

日出山山神社由縁

芭蕉も渡し舟でこの地に渡っていますので、古い街ですね。

小原田 5-31

郡山に近づいているのに書き込みが少ない😢東に見えるのは黒石山か?

香久山神社

頼朝が奥州征伐の折祈願したと言われる神社です。大綿津見命を祭る海の神様なのになぜ海から遠い郡山に?
江戸時代に郡山藩の堀田氏が手厚く庇護した様です。

円寿寺

浄土真宗本願寺派のお寺です

このお寺には市指定の重要文化財、石造浮彫阿弥陀三尊塔婆、絹本着色真宗系聖徳太子略絵伝と国の重要文化財の二彩色浄瓶がある。二彩色浄瓶は正倉院の宝物より3色少ないので国に取り上げられなかったのかな?
国指定の重要文化財二彩色浄瓶、レプリカが郡山歴史情報博物館に陳列。

境内には阿弥陀三尊の石塔婆があります

阿弥陀様の顔は欠損していますが菩薩の二体と西方浄土を願う屋敷の人が見れます。

郡山 5-32

一里塚の場所は不明です場所的にはJR郡山工場の近くかな?移ケ岳?位置的には黒石山
長沼之方、移ケ岳。小石橋を渡って小社、ここに阿弥陀堂有。善導寺、如法寺とおなじみのお寺が・・・
左上 此処は二本松10代藩主 丹羽左京太夫領分と書いてあります。

小社とは はれもんだ神社?

場所的に晴門田神社か?地元では松木稲荷神社と呼ばれています。この住所は晴門田です。
一条天皇 永延元年(987年)の命で従五位安倍朝臣晴明が奥州に下向。この地(松木内)を過ぐる時、悪性の腫物を病む。老松の下を選び祠を創り 晴明の母にすがり信太明神(白狐)を祀り病を治した。この神を腫物田神と号した。
後年晴明の曾孫がこの地に至りはれもんだ神社を創建した。
郡山駅近くにある松木(晴門田)神社
こじんまりしたお社です
赤い屋根のお社は信太明神(白狐稲荷)です

此処に阿弥陀堂有

晴門田神社の近くにあるのは現在の熊野神社です。廃仏毀釈で阿弥陀堂は無くなりましたが阿弥陀町(街道本町の東側付近)の旧地名は残っており昭和世代には通用する地名です。

熊野神社

市指定重要文化の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆は右の鳥居をくぐった左にあります。

鎌倉?室町時代の板碑

神社に石仏 神仏一緒に崇拝は日本的ですね
左一尊阿弥陀如来、中央は早来迎三尊像、右は阿弥陀如来の種子板碑

善蔵寺?善導寺

国道沿いにある浄土宗のお寺です。開祖は法然、創建天正七年の古いお寺です 
本堂、庫裡、鐘楼は有形文化財です
奈良時代の様式の鐘楼

戊辰戦争で焼け残った庫裡

如法寺

真言宗の古刹 1万坪の敷地に7堂伽藍の建物群と山門前に広がる日本庭園。地方としては大きな寺院です。  創建807年の馬頭観音を祭った観音堂では地方の歳時が営まれている。
経堂、本堂、その右に明治天皇行幸に使われた本陣を移築した庫裡があります。

仁王門の先は馬頭観音堂

仁王門には阿吽の仁王様。先にある馬頭観音堂

国指定の重要美術品 イボなしの鐘

国指定の重要文化財の笠塔婆

国指定の重要文化財として承元2年(1208年)銘の笠塔婆と建治2年(1276年)の石板塔婆があります

郡山 5-33

八幡社

安積国造神社には和久産巣日神(わくむすびのかみ)天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)比止禰命(ひとねのみこと)倉稲魂命(うかのみたまのみこと)誉田別命(ほむだわけのみこと)がまつられています。地元では 誉田別命が祀られているため八幡様と言われています
街中にある八幡様

神社会館前にある安積艮斎像

江戸時代末期に昌平黌の教授として活躍、私塾も開き近代的な思想をもとに2000人を超える生徒に学問を教えた。その教え子が明治の新しい社会を作り上げたことは有名です。

稲生社

安積国造神社の境内にある白王稲荷神社の事か? 稲生社は(いなり)(いなせい)(いなおい)とも言う
倉稲魂命が安積国造神社で祀られているとすれば 稲生社は白王稲荷神社であると思われる

御本陣 今泉久右エ門

郡山市の今泉家文書資料によると1720年ごろは郡山本陣今泉久右エ門の名が見られます。
現在は郡山ビューホテルが本陣跡で営業中です

音なし川  おおし川

感情の名所也や 音なし川 出俗拠ってオオシ川と申す 名所の川。 伊東主膳 古墳と申す也
この川は現在逢瀬川と呼ばれています。音なし川は熊野川の支流で禊の場として歌枕になっている
「みちのくの音無川にわたさばやささやきの橋しのびししのびに」ささやきの橋は是津なり同草 求る古事の忍びなす。
この歌は笹原川の歌碑にも近年書き込まれており今後の研究の結果を待つしかないでしょう。

伊東主膳(肥前)

仙台 上下之中此主膳の古墳 御命名 出○意之者の申し候
仙台家臣 伊東主膳 忠義の者よる 古事ありの他 讒謗の為に この塚にて 夜たまに侮かし処の事 ああ悲しき かな 忠君は遂に死すと古すも多く有りの候なり。
人を語すらに広し 忠臣祓いにも毒害の罪と同じと出したる可様は人口なり 慎むべきは口也音なし川西曰く

現在の伊藤肥前の墓

伊東肥前終焉Part3の地 日吉神社にある肥前供養碑
何度か移転を余儀なくされた伊東肥前の碑

日吉神社境内にある板碑群

久保田村 5-34

阿弥陀寺

阿弥陀寺なので浄土真宗と思っていましたが、真言宗室生寺派・無量山光明院のお寺です。

大弓の墓

場所的には冨久山町陣場にある小十郎塚と思われます。
1588年 伊達藩の片倉小十郎景綱が蘆名・佐竹連合軍と戦った時、福原古墳群の一つの古墳を陣所にした塚です。
陣場の地名は今も使われています
そのまんまの円墳ですね。盛り上がった場所で片倉小十郎が床几に座っていたのでしょう

ここで武奧増補行程記12-5は終了になります。機会があれば古地図を探し訪ね歩きたいとおもいます。