武奧増補行程記12-6を現代に見る(8~12)
- 2025.09.18
- 歴史
福島で寄り道が多く中々先に進めません。都市の中は寺社仏閣で場所の特定をしていますが名前の変更が記録違い等と、なかなか順調にいきません。ボチボチ進めていこうと思います。
絵図にある古文書の解説文や和歌の読み下しに間違いがある場合はご容赦ください
羽黒山(6-8)

西蓮寺(乗蓮寺)

羽黒山
「出口向うに見へたり 下手には左に街道曲がり有 時には右に折れて 暫く見え処多く有の候 いからへ村の辺より左後山も見へたり」 ????迷子になりそう。
絵図にある古文書の解説文や和歌の読み下しに間違いがある場合はご容赦ください
ここで信夫山と羽黒山は出てきました。五十辺地区は現在大きな4号線に分断されて東西に新しい地名となっていますがまだ五十辺の名前は健在です

伏拝より是なる羽黒を信仰したる婆ありて奇特の故事前に記したる 伏拝坂

鼻取り地蔵

競馬場の近くにあるのは何かの因縁があるのでしょうか?
子供が一生懸命農作業の手伝いをしているのに、大人は馬券を握って熱くなっている。


越の浜

いからべ村(五十辺)(6-9)
中央に記載された場所は信夫の丘球場の南側国道を挟んで岩屋観音と整備された分譲住宅地に分けられています。

五十辺公園

岩屋観音磨崖仏
五十辺にある岩屋観音
中央した記載は現在の岩谷三十三観音磨崖仏のある場所か?「山 石ばかりなる山あり 木なし 羽黒山つづき 賽の河原と申して笑う
磨崖仏群

佐藤庄司基治の叔父が伊賀良目(いがらべ)だったんですね。
観音堂


山の上には古峰神社の石碑が

本内村

信夫もちずり石
信夫もちずり迄 川を渡り往復三里 現代では道路もまっすぐ。記録にはもちずり石の説明が書かれている
河原左大臣「陸奥の信夫もちずり誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」あまりにも有名な歌です
普門院

芭蕉像

甲剛碑

もちずり石

人肌石

普門院の秘仏33年に一度だけ御開帳します。
普門院観音堂内部 今日は朝一番で前立本尊の御開帳が拝めました
安洞院多宝塔


三十三観音堂(経蔵33観音堂)

足止め地蔵
巨大な地蔵さん

じょーもぴあ
じょーもぴあ宮畑遺跡が北側にあります。松川も記載されています。川を渡ると瓦葺の大日堂があります
しゃがむ土偶

大日堂
瓦葺大日堂は不明でした
蔭山外記
是より北の杭に気になる名前が杭は消失していますが、蔭山外記は1772年に小名浜代官に赴任しています。赴任中に天明の飢饉などで当時郡山東部の困窮した村々を救済したことで有名です。郡山市栃山の不動堂西側には救民碑が建っています1783天明の飢饉の後 11年後に建てられました。10数年前は板倉藩がこの地方を統治していたので小名浜代官の赴任前の記録でしょうか?
杭に描かれた道標は確認できず
蒲田村(6-10)

鎌秀院の中に薬師堂があります。



丸子川
あるいはハカマタ川とあります。場所には八反田川があり聞き違いかと思われる

蒲田一里塚
グーグルには一里塚という地名がありますが?やっと探した蒲田一里塚跡の名残の地名

瀬の上(6-11)
納経の碑
場所不明
龍源寺

境内にある観音堂と念仏堂
摺上川

右上には山を歩きて3里ばかり右に見えたり麓に北畠顕家昔住国にて下り住み玉生跡ありと○り。奥州の国司職するよし。花将軍と呼ばれた 北畠顕家 は南朝立て直しの為に多賀城と霊山に国府を作り足利勢と戦いました。
長倉村(6-12)
右 此の川原にお国の如なる春木あり (春木は薪の事か?国花 桜や菊)絵を見ると薪みたいですね高級な朝廷向けの薪なんでしょうか?
下 此の宿川原町より申す 是よりとう川新道あり左へ行き町末は中村新道ありし中村城主 相馬大膳亮 現在の当主は相馬行胤さんです。相馬中村藩主家 第34代当主です。相馬馬追の陣頭指揮をとられる方です。
長倉地区の西念
西念の逸話は有名です。流れついた西念は荒れ果てた薬師堂を少しの浄財を集め修繕した・・・?この話は郡山の音路太子堂にも同じような逸話がありました。
長倉地区の西念はこれに尾ひれがつき、度々氾濫する摺上川を鎮める為、枯死するまで念仏を唱えたという話が作られてしまった。

西念和尚が立て直したお堂

その他に伊達市円福寺の真敬坊など村人の為に晩年は木食の行を行い3週間にわたって念仏を唱えて天寿を全うしたというお話も残っています。
奥羽街道は353号線として瀬上から国道4号線と並行して藤田迄旧道は残っています。
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