武奧増補行程記12-5を現代に見る(11~20)
- 2025.07.22
- 歴史
武奧増補行程記の古地図から現代の様子を再発見
白河の関から小峰城迄の続編です。矢吹宿までの行程5-11~20迄
小峰城までは 武奧増補行程記12-5を現代に見る(3~10)
絵図にある古文書の解説文や和歌の読み下しに間違いがある場合はご容赦ください
行程記5-11(白河 阿武隈川)
白河を離れて北へ旧奥州街道は国道294号線から旧4号線に入ります

古文書の文面では298号線を七里遡ると甲子温泉の案内が書かれています。阿隈河、大熊川ともかな同じ。水上この宿より7里先 甲子の出湯あり、この形熊の如しと、ここへは人筋もかよわぬという。又・・・・と言うような事が書かれています。
謎の和歌
?夫木集??
元歌は 太政大臣藤原道長の歌で「君が代に あぶくま河の 底清み ちとせをへつつ すまんとぞおもふ」 詞花和歌集の本歌取り? 理系の自分には・・?
白河市旧内は都市化にもまれ昔の痕跡を探すの難しいです。残っているのは地名と石垣
阿武隈川にかかる橋より見る白河城址の石垣
阿武隈川を堀にした城壁は今も残っています。

旧道(奥州街道)に架かる橋
名所の川 阿隈川

埋もれ木
阿武隈川はやっぱり埋もれ木の和歌「君が代に阿武隈川の埋もれ木も氷の下に春を待けり」新古今の 藤原家隆や 「深き秋 阿武隈川原しくるれど 色こそ見えぬ瀬々の埋もれ木」夫木集の 藤原康光 です。
後の世に松平定信が公家 烏丸光栄卿に 阿武隈川の埋もれ木で作った硯箱を献上したとのストーリーから、道長の「君が代に阿武隈河の底清み ・・・・・」より家隆か康光の歌が 後の世になると腑に落ちます。
細かなことは気にせず、阿武隈川の先には連法寺と稲田姫神社が書き込まれています。
(旧)連法寺≒(新)聯芳寺場所と読みは一緒
立派なお寺でした。偶然住職より絵図中央上にある古城の情報を入手 白河結城氏の居城 白川(搦目)城址でしょうとのことでした。
お寺の境内には色々な顕彰碑や慰霊碑があります。
芭蕉が白河藩の俳人 可云(かうん) に送った「関守の宿を水鶏に問はうもの」の句碑を発見


戊辰の福島藩士

ギダンさん?
終戦後GHQによって新憲法を作成することになり、鈴木義男(白河)と鈴木安蔵(相馬)が関わった事は聞いてはいましたが、鈴木義男博士は憲法9条に平和の文言を入れ25条に生存権の追加をしたりと安蔵博士とともに大きくかかわりました。以後社会党から政治の道に進み途中から民社党を設立しました。民社党は現在の国民民主党になっています

(旧)稲田姫神社≒(新)褜姫神社(エナ姫)場所と読みからしてここでしょう

義経は静御前だけでなく皆鶴姫も?。忙しい人だったんですね
エナ姫神社の上は白河市の霊園公園になっており薬師や稲荷の痕跡はありませんでした

ここを過ぎると国道4号線です
行程記5-12(根田 女石)

追分
今で言う道路標識です。絵図の時代は木の杭で後年松平定信が街道筋の追分杭を石柱に変えたと記録があります。
女石追分


追分の石柱から少し戻ると
ここが絵図の時代の追分です。には時代が下がりますが、仙台藩士戊辰戦没者慰霊碑があります
遊女 志げ女の碑
仙台藩士戦没碑の三差路を仙台方向の進むと

行程記 5-12 追分の表記のみ、女石の地名は無いのでそれ以降の地名ですね。志げ女の逸話からできた地名なのかな?
石雲寺
4号線に入ってしばらく進むと石雲寺と言うお寺があります。
絵図左上に 紫石 この寺にあり注連縄回し置き 紫雲山 石雲寺とあります

紫石はどこだ?
絵図の下には紫雲山石雲寺の紫石は本多能登守がこの寺の紫石を座前に引かんとて、数人で引けれどもピクリとも動かなかった? 不思議な石?

娘道成寺の安珍の故郷があります。
安珍堂
女石追分を左会津に向かうと安珍堂があります。ここ白河根田は安珍の故郷です。増補行程記には書き込まれてはいない、娘道成寺の安珍と清姫のお話し、女性が怖いと知ったのはこのお話です。



行程記 5-13(泉田)
泉田地区の周囲には愛宕神社がいっぱいあって場所が絞れません。現在は確認できるのは 豊地日向 久田野向前山 小田川愛宕下 小田川愛宕の4か所が現存します。
杭あり是より南白川領 北越後高田領とあります。この先北は小田川~大和久は高田藩の分領地です。
真言照明院は残念ながら現代では探し出すことが出来ませんでした。泉田の地名だけは残っています。
行程記5-14(小田川)

小野薬師
絵図にあるのは小野薬師と思われます。
行程記5-15(太田川)




切れ地蔵(武光地蔵)
切れ地蔵有、二門三堂山と申し有 切られ地蔵有にて仏も有り仙台の足軽に此処で地蔵かて切られたとの処とも・・・・


行程記5-16(岩崎村)

踏瀬 5-17

四谷新池等の当時のため池や地名は点在します
慈源寺(慈眼寺)
絵図の左端に慈源寺の書き込みがありました慈眼寺か?

絵図の中央には松並木が・・・
踏瀬地区の奥州街道の案内には松並木は松平定信が整備したと書かれてます。 絵図の中央に、以前から松並木はあったのでしょう。今の松は明治18年の補植です
行程記5-18(大和久) 
愛宕神社

大和久内の神事
今も引き継がれている様です
日吉神社と表記されているがどう見ても寺院ですね。化政時代に作られたのでしょう
旧道 五本松にある茶屋
大和久 五本松地区に絵図にあるように街並みが書かれています。

化政時代に旅が一般的になり宿も整備されて大いに賑った様子が見えます。
行程記5-19(中畑新田)

藩界標柱
絵図の記載は是より北 白川領 是より南越後高田とありますので絵図の後に建てられたのでしょう。
後年中畑村に移設した標柱

この標柱は中畑村に移転されています。当時大和久村は高田藩の分領地の為北に白河?当時の人は悩んだのでしょうね
矢吹 5-20

町の入口に台福寺
右に書かれている台福寺?実際あるのは幸福寺。今風のキラキラ寺院?


小針暦二氏は福島交通、福島民報社、ラジオ福島等などのオーナーとして東北の政商と言われた人物です
古地図には台福寺の向かいに太子堂在り。しかし大山祇神社とあります?


近くにあった旧幸福寺本堂

街中に入ると本陣跡が

標柱の先は

本陣の先には一里塚
矢吹町の出口になります今回はここまで。
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