武奧増補行程記12-5を現代に見る(3~10)
- 2025.07.09
- 歴史
武奧増補行程記
盛岡藩士 清水秋全が1751年に藩主南部利視の命を受け、江戸から盛岡までの奥州街道の様子を色鮮やかに描いたもので今回は福島県境から郡山までの行程記(武奧増補行程記12-5)に沿って訪ねてみました。
増補行程記12-5は白河の関から郡山の久保田町までの絵図です。現代に残るものがあるでしょうか。
尚 絵図にある古文書の解説文や和歌の読み下しに間違いがある場合はご容赦ください
白河の関から白河城 (5-3~5-10)
清水秋全が行程記12-5を書いた時代は、芭蕉が奥の細道を訪ねてから60年以後。松平定信が集古十種を編纂した50年後に白河の関が明神の関(二所の関)から現在の関跡に指定されたようです。
鎌倉時代までは義経も現在の関所と関山に立ち寄っています。関所として機能していたのは5世紀~7世紀と推測される、有名な「都をば霞とともに立しかど秋風ぞ吹く白河の関」の時代には廃墟化した関の後だったのでしょう。もっとも能因法師は白河の関には訪れていないという説もありますが。しかしこの和歌で白河の関は誰もが憧れる歌枕になっています。
行程記5-3 (サイカチの木)

この絵に描かれたサイカチの木は仙台より江戸からまでの中間地に植えられていたもので、飛脚の目印になっていたようですが現在は見当たりません。
有名なサイカチの木は塩谷町、小山市、市貝町には古木がありますが、この絵に描かれているサイカチの木は300年近い年月で無くなっている可能性が有ります。
本宮市にあるサイカチの古木

サイカチは非常食や木の実は石鹼に使ったり、樹勢が強く目印になるので街道筋や寺社仏閣に多い様です

行程記5-3 現在の推定の場所
福島と栃木の県境から栃木よりのポイントが東京と仙台の中間になりますのでこの辺かな?増補行程記12-4の中山宿に観音坂の記述があります。
行程記4-43(中山宿)

現在の観音坂 中山地区

道路改修によって坂は切り崩され、切り通しになっているが、ここが観音坂である。この東方の山中の岩肌に線刻による摩崖仏がある。時代は不明であるが磨崖仏の発生時期と奥州道の形成、寄居地区の歴史的背景を勘案すると中世(室町期)まで遡ることができよう。(もうひとつの那須 https://nasumatch.com/spot/0329406/ より)
となると行程記の仙台と江戸の中間地は 行程記4-43(中山宿)と下記の5-4(境の明神 栃木)の間(5-3)と思われます。
行程記5-4(境の明神 栃木)

この時代まだ白河の関は場所不明でした。芭蕉もこの地で白河の関をこの地として陸奥入りをしました。≪卯の花をかざして関の晴れ着かな〈曽良)≫ 鎌倉時代以降に旧奥州街道( 国道294号線)がメイン街道になったようです。地元では県道76号線は鎌倉街道と言われています。
右下の文はこの街道は岩石多く馬が難儀して馬を祭るというような文面が・・・・気になるのは説明文は無いのですが、中央の松の下に石仏のようなものが2つ書き込まれています。
現地に行くと大きな地蔵さまが在りました。しかも左側の供養塔は享保六年と記載されており行程記5-4がかかれた時にはすでに祀られていました、こんな大きな地蔵様が上に。



住吉神社 関東の境明神

疑問を残して福島へここからみちのく
行程記5-5(境の明神 福島)

ここでは境の明神が白河の関と認識されているようです。和歌は追分の明神(旧白河の関)で詠まれているので、東二里の関山と追分の明神側が白河の関でしょう。
絵図には白河の関是也 二所の関には観音有る也 東2里に関山と二所の関が・・・・と、この時代でも関所の場所が曖昧だったようで、50年後に定信が白河の関の場所を決定するまで、ぼんやりとこの辺だろうと・・・いい加減ですね。
この時代は関跡が不明なため、境の明神(福島-玉津島神社//栃木-住吉神社)と追分の明神(住吉玉津島神社)が関所の証明となっていたのでどちらも白河の関と呼ばれていたのかもしれません。
右上には 名物「餅」と記述があります。南部藩家老 石井七兵衛が 供出金の着服の責任を取って浪人となったが、後日 白坂の地で茶屋を開く恩赦が与えられ南部屋を開くことになった。七兵衛の老妻の作る安倍川餅が茶店の名物となり南部藩と白河の関は深い因果で繋がれております。ちなみに角界の二所の関部屋は、力士の南部二所ノ関軍之丞が開いた相撲部屋で、白河二所の関明神と深いつながりがあります。
玉津島神社 奥羽の境明神



松尾芭蕉も訪れた
奥の細道で曽良と芭蕉はここからみちのく入りをしました。

近くにある茶屋

境の神社の道路を挟んで反対側にある白河の関跡の碑

周囲には屋号が入った石柱が数本ありました
行程記5-6(白坂)

吉次兄弟の墓

左下に吉次3兄弟の墓があります、左から吉内、中央が吉次、右が吉六(陸)平泉から京へ砂金を献上していた商人(金売り吉次の由来は不明)が此の地で盗賊に殺害されて葬られています
吉次達のお墓は後日 村里離れた寂しいお墓から、村人達が街道沿いの八幡宮に合祀したそうです。
行程記5-7(皮籠村)
ここでも二所の関山は見えるようです。皮籠 の地名は今も残っています。

街道沿いにある八幡宮 後日義経もお参りされたようです。


「盗賊は吉次の金を盗みこの橋で配分す」という小川

行程記5-8(皮籠付近)

行程記5-9(白河城入口)

城郭入り口は後世に起きた戊辰戦争で大きく地形が変わった場所があります


道路の反対側にある官軍の慰霊碑

大きく迂回すると、今もある九番~一番町や天神町は地名としてしっかり残っています

行程記5-10(白河城)

小峰城
行程記がかかれた時も天守は建っていたようですが絵図には書かれていません。定信が登ったという記録もないので、もしかしたら老朽化して立ち入り禁止になっていたのかもしれません。
コンパクトなお城ですが松平定信が詳細な図面を残していたため、材料、工法、寸法等、築城当時の状態を残している貴重なお城です。
宗祇戻し
左下に宗祇戻しの逸話が書き込まれています。「宗祇戻しの故事あり・・・」
「阿武隈の 川瀬にすめる 鮎にこそ うるかといへる わたはありけれ」
連歌の神様と言われた宗祇が、白河城下で開かれる連歌会に出席する道すがら、綿売りの娘に「その綿売らんか?」と尋ねたらこの歌を返されたので、こんな小娘にアユのうるか(ハラワタ)と綿を掛けた歌を返され、すごい町だ‼と連歌会に参加せずに すごすごと引き返したと言う逸話です。

近くには追分の石柱

白河の西側は都市化で大きく様変わりしているのですが東南は旧道も残っており古のお趣を残します
小峰城郭内にある太鼓櫓は、修繕はされていますが現存する貴重な建物です
武奧増補行程記に沿った白河の歴史探索ですがこれからも地道に訪ねて歩きたいと思います。
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