武奧増補行程記12-5を現代に見る(21~26)

武奧増補行程記12-5を現代に見る(21~26)

旧奥州街道も県中に下ってきました。須賀川宿 町は賑やかになってきます。

久来石 5-21

絵図に目新しい書き込みは無いですね

地名はしっかり残っています

久来石 きゅうらいいし と呼びます
絵図左上の明神は笠石熊野神社か?不明です。

笠石 5-22

笠石地区には神社の記載はないですね

長明寺

お寺らしきものは確認できませんが長命寺と笠石の地名だけが残っています。
長命寺付近笠石地区  笠石と思われる石?
普通の大っきな石です。

和田平太胤長

鎌倉の13人 和田義盛の甥で北条氏に反旗を翻しこの地に流されたと言われます。妻の天瑠が胤長を探しこの地で果てたという悲話があります
左に 久来石、笠石、蛇石とて三ケ所あり由。石碑 文字見えず和田平太胤長 兄弟三人の古墳なりと云う。鏡沼 山伏の祈るに用いるよし  七つ小塚あり

笠地蔵 和田平太胤長の墓?

笠石の由来?

お堂の隣は同じく笠地蔵と呼ばれる釈迦如来の種字板碑があります。これも笠地蔵? これ等を一括りにして笠石という地名になった様です。
此の板碑は和田平太胤長の墓と呼ばれています。須賀川にも同じく和田平太胤長の墓所があります。

笠地蔵菩薩堂

明暦時代の板碑?完全に胤長の供養塔とすれば時代が離れすぎています。江戸時代には板碑供養塔が無くなってきた時代なので、新しいというか?珍しいですね。

お堂の中

笠をかぶった板碑は古い時代に多いようですがこれは新しい時代の笠塔婆でしょうか(釈迦如来です)

江戸時代には武家を中心に笠塔婆を供養塔にする風習が復活しています。この地方の人々達が胤長の供養の追善結集供養塔の可能性が有ります。

お堂の隣にある文和三年(1354)の板碑

南北朝時代の典型的な板碑です
胎蔵界大日如来

板碑の形から典型的な板碑です。和田平太胤長の追善供養塔であれば時代は近いですね。

お堂のにある石碑は  バク(釈迦如来)が笠地蔵です。(文化財指定番号 14) ア(胎蔵界大日如来)は種子板碑で胤長の没年齢に近い(文化財指定番号 7)

この地区の板碑はすべて笠石と呼ぶようです

鏡沼-23

鏡沼は鏡石町の北に位置して古地図には、保常酒 大家与左衛門 真言再興寺(西光寺)観音堂有が読み取れます。 絵の中央には杉玉が見えるので大家与左衛門の酒蔵でしょうか?

左には 「万代山(磐梯山)頂上に沼、七里ほどの広さ有 古歌にも詠める会津根と申す山なる由」

再興寺

西光寺・観音堂
再興寺。読みは一緒です

 

 

観音堂(観世音)もあるので改築していますが絵図と合致します。

一里塚

須賀川に近づくと都市化が進み270年の時代変化を感じます
西光寺から左折すると芭蕉も訪れたという影沼(鏡沼)
小さな水たまりです
ここにも和田平太胤長が・・・
文晁の高弟 蒲生羅漢 文晁が光り過ぎて目立たないですね。現在の地形と同じです
鏡沼の北に稲村御所跡があります。第三代鎌倉公方の足利満兼の二人の弟 満貞を須賀川の稲村と満直を郡山の笹川に派遣し満貞(稲村公方)と満直(笹川公方)として領地を統治させました。

稲村御所跡は稲公民館の赤木寺近くにありました

西光寺に戻って少し北に進むと鏡石鹿島神社があります。

鏡石鹿島神社は「行程記」以後に作られた神社かと思います。

鏡石地名は久来石、笠石、鏡沼の村がまとまり鏡石になったのは明治22年に鏡田村、久来石村、笠石村、成田村、が合併して鏡石村が町名の偏移です。
鏡石鹿島神社の前身は当地の高久田村の館主だった箭部紀伊守公為がこの地に鹿島神社の分霊を勧請したと言われます。現在地の東方鹿島館に近くから後年、現在地に移設したようです

須賀川 5-24

石碑故事無し 出家暫轢せられたると云う。二階堂館と云う
掃祭場境?濁り池、ふたん濁るという。影沼地区の事か?
須賀川に入ると神社が描かれています。天和3年(1683年)八百屋お七の振り袖火事の時代です。

藤原稲荷

御大宝山の枝垂れ桜(樹齢100年)がある藤原稲荷神社(室町時代創建)
こじんまりした神社です

御嶽大神

此処も可愛らしい神社でした
絵図に描かれた神社と同じか? 不明でした。

須賀川 八幡社 5-25

正泉寺  勝誓寺

延文5年(1360)、長沼城主・新国上総守によって建立された古刹です。
古地図から場所はあっているようですが、住職のお話では正泉寺とは違うようですねとのことでした。

明林寺 妙林寺

須賀川市内の古刹の様ですね

八幡社 八幡社跡

須賀川市役所(八幡町)に八幡社岩瀬寺?神社じゃないの?
古地図にあるように大きな神社?だったようです。明治時代まではあったのですね。しかもお寺だ
諏訪神社に八幡社は合祀されたようです

芭蕉が滞在した等窮庵

市役所近くNTTの裏にある可伸庵跡  「世の人の見つけぬ花や軒の栗」

入口には2本の大きな栗の木が、しっかり目立っています
諏訪神社 須賀川総鎮守神炊館(おたきや)神社
諏訪神社(御炊館神社)会津藩主上杉景勝公の庇護で大きくなった諏訪社
茅の輪を本殿の前に設置するのは夏至ごろまでと思いますが・・・・最近の はやりですかね。

俳句の町須賀川

市原多代女の他須賀川の俳人の句が

等窮の作った須賀川地方の俳句の広がりは大きかったのですね

晋王寺 晋應寺

南北朝時代の古刹でした、須賀川の寺子屋があった場所なのですね
孝新魚類乏し?左上地蔵堂の書き込みあり

長禄寺

室町時代1457年須賀川城主建立の曹洞宗の寺院です
本堂の裏に墓地があり亜欧堂田善の墓があるとのことですが見つけられなかった

中宿 5-26

須賀川城下より釈迦堂川に至り中宿までの地形は今も変化はありませんね

是より南 白河領 是より北 越後高田 北は仙台ではないのか?ここから宇津峰も見えたようです。

左に星ケ城と申す古城、昔 田村惣 の申す人の居住し跡・・・星ケ城は宇津峰城の別名と思っていましたが?

鎌足大明神

石段を上ると本殿が(;^ω^)
近代的なコンクリート製の寺院でした
左に記す 岩瀬の森と申す山 名所の山と 「岩瀬の森の貴方なるとは この山になる名所の川 東南に貫く阿武隈川流る。 岩瀬の森の西と答えんとも 申したるも詩ありゆきには」
紀貫之の和歌 「みちのく岩瀬の森の茂る日に一声暗き初ほととぎす」が鎌足神社の境内に
下宿村 中の上稲田 かいりと申す中上の苗  制札 年号月日小平太とある 上に三春境の山
小平太とは和田平太胤長かな?確か横山工業団地北側の須賀川IC近く釈迦堂川道路沿いにあったかと思いますが?
和田平太胤長の墓所
注釈の書き込みは不明な点が多いです。
次の古地図は滑川です